教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(10)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆国道181号線旧道は国道313号線との交点を直進

 明治32年測量の地形図上には鳴戸橋の姿が描かれ、明治30年代には車両の通行を許す橋梁として成立していた様子が窺える。事実その当時は荒田を経て新見へ向かう現県道32号線筋の原型が確立されており、鳴戸橋は勝山と新見を繋ぐ生命線として重要な役割を担っていた。

 久世同様ここ勝山も旭川によって町が二分され、両者を繋ぐのに渡し舟は古来欠かせない重要なインフラであり、車両通行が解禁となった明治初期には、橋梁がそれに取って代わる存在となったのは間違いない。久世で旭川を跨ぐ一番橋が明治一桁の架設であるから、ここ勝山も同時期と考えるのが妥当だ。

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◆国道313号線との交点より左斜め45度に舵を切る旧道

 明治32年の地形図に描かれる鳴戸橋は、早ければ明治一桁竣工の初代の橋で、明治25、26年の連続する大水で大破した初代の橋に代わる二代目の可能性もあるが、いずれにしても明治10年代には車両の通行を許す橋として存在した事は、川西村の記録からも読み取れる。

 勝山村ヨリ川西村ヲ経テ備中ヘ通ズル一等里道、川西村字中町ヨリ川西村大字本郷ヲ経テ備中ヘ通ズル路線ヲ、勝山村字新町ヨリ鳴戸橋ヲ渡リ、川西村大字三田ヲ経テ備中ヘ通スル事ニ変更ス

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◆旧国道は普通車同士の擦れ違いを辛うじて許す

 川西村の壹等里道線路変更上願之事なる建議書では、備中街道の本線を中町と本郷を結ぶ路線から、新町と三田を結ぶ路線に変更するよう求めている。新町と三田を連絡する橋を鳴戸橋と表記しているのに対し、中町⇔本郷間の橋については具体的な記述が無い。

 しかし文脈からそれが中橋である事は間違いなく、事実中橋の東側の字は中町で、西側の字は本郷である事から、一等里道の路線変更を訴える対象路線が、中橋と鳴戸橋の両者である事を疑う余地はない。この建議書には明治年間の路の遍歴を示す複数の重要な情報が盛り込まれている。

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◆旧国道筋は一時代前の線形で住宅街を縫い進む

 まずは建議書の提出年月日に着目したい。明治22年10月17日、これの意味するところは、明治22年現在に於いて中橋と鳴戸橋が共存しているという点だ。その当時の中橋は一等里道を名乗っているのに対し、鳴戸橋は三等里道と甘んじており、建議書は両者の立場を入れ替える事を要求している。

 その理由としては本来一等里道を通行すべき人馬が、鳴戸橋に一極集中し混雑して困っているという。一等里道である中橋は利用者が少なく、逆に鳴戸橋は利用者が多いのだから、中橋を三等里道に格下げし、鳴戸橋を一等里道にすべきという趣旨の請願で、恐らく将来の県道昇格も見越している。

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◆大型車が来れば流れが滞る幅員5m弱の狭隘路が続く

 ここまでの要点として押さえておきたいのは、最終的に国道橋となる鳴戸橋が、三等里道という最下級道路からの叩上げである事、また明治22年に橋梁が成立するどころか既に交通量を巡る問題を抱えていた事、そして明治の半ばに中橋と共存していた点などである。

 今でこそ中橋と鳴戸橋は立場も規格も完全に逆転しているが、その昔は全ての点に於いて中橋が優位であったのは間違いなく、それは出雲街道筋という実績があるからに他ならない。しかし建議書が提出された時点で中橋から出雲街道の看板は外されている。一等里道という肩書がその証左だ。

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◆規格の差が歴然とする国道181号線新旧道交点

 実は建議書には前説がある。

 昔古勝山村ヨリ西ヘ通ズル国道及ビ一等里道ノ二橋アリシヲ、今ヲ去ル凡二十ヶ年己前同村協議ヲ以テ鳴戸橋を新設セシニ

 その昔から勝山には国道と一等里道の二つの橋があったが、今から20年程前に川西村で協議の末に鳴戸橋を新設し・・・

 明治22年より遡る事20年に前に鳴戸橋を新設・・・

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◆高田宿の上方に道標を備えたT字路を捉える

初代鳴戸橋は明治2年竣工!?

明治2年竣工となると、それを達成するには元号が変わって直ちに行動に移さなければ間に合わない。明治元年は慶応4年であり、その前年に大政奉還と王政復古の大号令が成された点を踏まえれば、初代鳴戸橋の架設は驚異的なスピード感を以て成されたと解釈せざるを得ず、竣成が廃藩置県の断行前である事から、勝山藩の藩命によって鳴戸橋は日の目を見た事になる。旧国道橋は拡大解釈をすれば江戸時代との繋がりが希薄でないとの見方もできるが、話はこれだけに留まらない。僕は中橋の上流に待つ大本命の橋と対峙する事になるのだ。

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