教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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杉ヶ乢(8)

★★★

杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書

出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。

 

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◆単なる裏路地にしては4m幅と広い石畳の道

十字路は旧国道と旧旧国道の交点

続くT字路は出雲街道と倉吉街道の交点

出雲街道の本線はT字路を折れ曲がる

恐らくその事実はどのパンフレットにも記載されてはいない。通行者のほぼ100%が何事も無かったかのように、近接する重要な交点を素通りする。そこで僕ははたと気付く。教育こそが最も大事であると。出雲街道がクランク状に折れ曲がっている事を、知っているのと知らないのとでは豪い違いだ。

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◆現在は歩行者専用橋となっている中橋

徒歩通行時代の街道筋を記したガイドブックは存在する。しかし鉄道開通により従来の交通システムが破壊された後の経路については、ほとんど有耶無耶とされている。まるで出雲街道は江戸時代の終焉と共に、歴史の闇に葬り去られたかのような扱いとなっているのだ。

幕末から鉄道開業前夜までの明治期及び大正期の街道筋が、いかなるものであったのかを明確に世に知らしめた書物は、僕の知る限り小谷氏の著書を於いて他にない。ましてや時代によって経路が異なる路線図を交え、出雲街道の遍歴を詳細に解き明かした文献は皆無に等しい。

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◆橋の土台付近には高瀬舟船場跡の碑がある

ほぼ完璧と思える氏の調査でも、明治黎明期の交通史については、さっと流す程度である。小谷氏がそれほど重要視しなかった明治初期の陸上交通については、僕なりに可能な限り迫りたい。まず駅前商店街を抜けた直後の十字路を直進するのが旧国道で、鳴戸橋を渡ると程なくして現国道に吸収される。

一方十字路を右に折れ曲がる路は、旧国道筋の成立以前に供用されていた本線で、新庄川沿いを遡上する現在の経路が確立されるまでは、全ての車両が十字路での右左折を余儀なくされた。大正15年補正の地形図では、十字路を右折の路が本線として描かれている。

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◆中橋の袂は勝山でも最良の高瀬舟乗降場

それを額面通り受け取れば宿場内を貫通する路が、大正年間は出雲街道を名乗っていたとの解釈が成り立つ。現在は勝山大橋で旭川を一跨ぎする国道であるが、かつては一旦旭川に沿って北上し、宿場内の何気ないT字路を左に折れ曲がり、軽自動車一台の通行がやっとの細い橋が旭川を跨いでいた。

その橋の名を中橋という。親柱には銘板が埋め込まれ、昭和48年3月竣工と彫り込まれている。両脇の手摺が木製でパッと見が木橋のように映るが、その足元にはコンクリートを用いた永久橋で、かれこれ40年近くも旭川の激流に耐えている計算だ。その橋の袂には貴重な遺構が現存する。

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◆手摺は木製であるが土台はコンクリ製の永久橋

丸みを帯びた川石で構成された河川敷の石垣、それが高瀬舟の発着場であると案内板は記している。県内に現存する発着場はここ勝山が唯一と謳われ、その他は全て河川改修の際に破壊されたのだという。確かに高瀬舟の発着場とされる箇所の多くは、痕跡が消え失せ悉く姿形を変えている。

鉄道が開業するまでは中橋の袂が駅の役割を果たしており、岡山への出張も修学旅行も新婚旅行も、全てはこの舟着場から始まった。大正14年春の作備線中国勝山駅の開業以前は、中橋の土台付近が勝山の表玄関であったのだ。町史は中橋の舟乗場の完成度が抜きん出ていると称賛する。

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◆中橋の着地点は県道321号線の起点でもある

その理由は段上に築かれた石垣によって、河川の増減に左右されずに済み、貨客の乗り降りが自由に出来たからだという。裏を返せば他の舟着場は水量による影響をもろに受けていた事になる。勝山で最良と称される舟着場と出雲街道筋が直結しているのは、けして偶然ではない。

文献には勝山以北も高瀬舟が往来していた記述は見られるが、県北に近づけば近づくほど水流は激しく、基本的には駄馬や人の背によって勝山まで荷物は運ばれ、流れが緩くなる勝山以南を舟で輸送というスタイルが一般的であったという。従って町史はここ勝山を高瀬舟の起終点と位置付けている。

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◆中橋とその延長線上にある県道筋が出雲街道

最盛期は300隻の舟が行き来していたという旭川に、小型ボートを除く真っ当な輸送船は一隻も見当たらない。鉄道の開業で打撃を受けた高瀬舟は、昭和9年の大水で残された舟も流されてしまい、河川輸送のシステムは完全に消滅したという。

高瀬舟との連携を果たしてきた中橋は、今歩行者専用通路として第二の余生を過ごしている。しかしこの道が現役の頃は、それなりの肩書があったのだと路の続きは語る。中橋の延長線上にある道は、今も県道を名乗っているのである。

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