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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>杉ヶ乢 |
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杉ヶ乢(5) ★★★ |
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杉ヶ乢(すぎがたわ)の取扱説明書 出雲街道は僕等の想像を遥かに超える意外な路の遍歴を辿っている。その事に気付かされたのが2013年で、奇しくもその年は60年に一度の遷宮に重なる。勢いで四十曲峠を極めるかと思いきや、そうは問屋が卸さない。ひとつの路線を極めるという事は、それだけで本を一冊出せてしまうくらいのボリュームになるのだと、故小谷氏は教えてくれる。久世⇔津山間の峠史については一通り調査を終えているが、久世より西側及び県界を跨いだ鳥取県側については、過去に通り抜けた例があるというだけで、我々はまだ何も知らないに等しい。出雲街道筋の久世以西にまともな峠があるのかという疑念の声が聞こえてきそうだが、答えは“ある”だ。それも複数に及ぶ峠の連続だ。もう一度言おう、我々は出雲街道についてまだ何も知らないのだ。四十曲峠は出雲街道の最難所に過ぎない。そう悟った時、これまで見えなかったものが見えてくる。杉ヶ乢は我々の既成概念をぶち壊すには丁度いい物件だ。徒歩道に力車道に馬車道に自動車道、それらがぎっしりと詰まった杉ヶ乢で出雲街道のお浚いをしつつ、可能な限りその本質に迫りたい。 |
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◆掘割は化粧等の人為的処理が全く施されていない 堀割の幅はかなり余裕を持たせてあり、直線にしては珍しく普通車同士の擦れ違いを許す。開削当初からこの広さを有していたのかどうかは定かでないが、地形図を鵜呑みにすればこの旧道は昭和黎明期に敷設されているはずで、対象となる車両は馬車ではなく自動車である。 普通に考えて全線を通じて車道規格でなければならないし、この道一本で上下線を捌く事を思えば、適当な数の待避所を用意しておかねばならない。どうせ岩塊を堀割るなら待避所を兼務させるのが得策で、わざわざ待避所を別に設ける手間が省けるのだから、掘割が若干広めであるのも頷ける。 |
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◆やや高い位置にある掘割の前後は緩い下り坂になる これまでに得られた古老軍団の証言をまとめると、戦前の大型車とは現在の2トン車程度の車両を指し、バスもハイエースを若干大きくした程度で、現在のマイクロバスにも及ばないレベルであった事が分かる。となるとこれでも車両の擦れ違いが満足に行われていた可能性が大だ。 というのも新庄川沿いの旧道区間を精査すると、カーブの多くに十分な余白が認められ、結構な数の離合箇所が用意されているからだ。この道が敷設された当時の車両は小型車のみと言っても過言ではなく、新道を設計した者と利用者側の双方が納得し得る代物であったに違いない。 |
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◆基本的に見通しの利く区間に待避所は見当たらない その時分は現在に比し通行車両のサイズも小さければ、絶対的交通量も少なかった。勝山町史はこの界隈に於ける車両は、昭和30年代までは商用車がほとんどで、庶民がマイカーを持ち始めたのは昭和40年代になってからであると説いている。それは現道の敷設時期に重なる。 戦前戦後を通じてこの道を行き来する車両は、小型のトラックと小型のバス、それに御偉方を乗せた公用車と富裕層が乗り回す乗用車、それと終戦までは軍用車、戦後はGHQのジープが加わる程度で、そこから見えてくるのは忘れた頃に車両がやってくるという閑散としたシーンである。 |
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◆側壁は岩盤剥き出しだが道床側面は石垣が認められる 夜間は当然として日中もほとんどが静寂に包まれ、その静けさを打ち破る車両が時折通過するに過ぎず、車両の往来が1分と途切れない現代とは、利用頻度に於いて決定的な差が生じている。従ってこれでどうやって捌いていたのかと疑問を呈する事はナンセンスである。 但しこの道一本でまともに捌けていたのは、あくまでも絶対的車両数が不足していた昭和20年代末までで、自動車の保有台数が飛躍的に伸びる昭和40年代は、当路線でもあちらこちらで流れが滞り、そこかしこで慢性的な渋滞が発生していたであろう事は想像に難くない。 |
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◆橋梁設置に伴い嵩上げされた現道に取り付く旧国道 都市部では昭和30年代半ばに自動車の増加傾向は顕在化していたが、都会と地方ではタイムラグがある為、この界隈でモータリゼーションが顕著となったのは昭和40年代に入ってからである。それまでは庶民にとって高嶺の花であった自家用車が、いよいよ手の届く域に近付きつつあった。 昭和33年にてんとう虫と呼ばれた車両が産声を上げる。他でもない日本初の大衆車となるスバル360である。第一号車を購入したのが松下幸之助というのは、今でも自動車業界の語り草となっている。翌年その普及を後押しするビッグニュースが舞い込む。オリンピックの開催地が東京に決定したのだ。 |
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◆路線切替から40年超が経過する新庄側の新旧道交点 この地に人力車が出現したのは明治一桁と早い。従っててんとう虫が旧道筋に轍を刻んだのも昭和30年代半ばと考えるのが妥当だ。未舗装路を時速60キロで巡航可能なヘビーデューティーな大衆車は、トラス橋の脇を擦り抜ける狭い砂利道を、軽快に駆け抜けたに違いない。 日本の道路の八割が未舗装であった時代に、大人四人を乗せてもオーバーヒートせずに峠道を克服するスバル360は、車両価格が100万円以上するのが当たり前だった時代に、42万5千円という破格値で市場に投入し、自動車業界のど肝を抜いた。まだトラス橋の構想すら描かれてはいない時分である。 |
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◆現道に吸収された途端に法面処理が施されている この界隈に大衆車が定着するのは東京五輪後の事であるが、その先鞭は昭和30年代中盤に付けられ、谷底を遡上する狭隘ダート国道をてんとう虫は力強く走り抜けた。今その道は全線二車線舗装化が完了している。 未舗装に始まり未舗装に終わった旧国道は、青いトラス橋で現道に吸収され視界から消える。現道はあたかも始めから大型車の相互通行を許す快走路が成立していたかのように装っているが、各世代毎の路が現存するのだと旧道は訴える。 杉ヶ乢6へ進む 杉ヶ乢4へ戻る |