教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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伊田乢(3)

★★★

伊田乢(いだたわ)の取扱説明書

瀬戸内海は児島湾に注ぐ旭川と吉井川の両大河は、共に高瀬舟が往来した事で知られ、鉄道や道路が発達する以前は、内陸部の主力輸送機関で有り続けた。現在は並走する国道53号線並びに国道374号線にその座を譲っているが、明治から昭和初期にかけては、競合する乗合馬車や陸蒸気と覇を競った。高瀬舟に引導を渡した川沿いの幹線道路を、国道484号線が結び付けているが、県道を昇格させた名ばかりの国道だけでは心許無く、県は同線の南方に主要県道を設定している。擦れ違いが困難な1.5車線の狭隘国道に対し、95%の割合で二車線化が完了している県道53号線は、三桁国道を尻目に連絡路として事実上の主役を担っている。その路線上には二つの難所が立ちはだかるが、国道53号線寄りの伊田乢の一部に、開削時を彷彿とさせる区間が存在する。付替え時期の如何によっては、そっくりそのまま馬車道である蓋然性も否定できない。事の真偽を確かめるべく僕は現場に急行した。

 

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辛うじて道路として体裁を保つ旧道

昭和から平成の始めにかけて三度の改修を経て、この峠道は現在に至る。赤磐側は近年の改修で劇的に改善されたが、金川側は依然として狭い二車線のままである。大型車同士の離合は辛うじて許すが、未だ金魚の糞状態が解消されていない金川側を見る限り、高速巡行はまだまだ先の話だ。

聞き取りを行った峠下の伊田地区は峠名にもなっているが、民家の軒先を掠めてバスが行き来していたという証言が、そっくりそのまま当て嵌まるような狭さにあり、伊田地区内は道幅を広げたはいいが、それを上回る特大車両が往来するようになり、県道上で唯一のボトルネックとなっている。

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一雨降ればヌタ場と化す泥田状の泥濘道

不完全な県道の往来を余儀なくされるドライバーの気苦労は未だ絶えず、また地区内の住民は四六時中危険に晒されている。伊田地区に現存するセンターラインの無い狭い二車線区間が、一時代前の改修路であるのだろう。老夫婦のいう普通車同士の擦れ違いが叶うようになった道だ。

その前の改修では大型車一台が通れるようになったといい、センターライン付きの二車線の半分くらいはあったというから、その頃の幅員は4〜4.5m程度であったものと推察される。ではこの山道はどうだろう?パッと見は2.5m程度で、両脇の雑草を取っ払った実幅は3〜3.5mと考えられる。

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墓場を挟んで並走する新旧道

この旧道は右手の崖の下に墓地がある。元々は谷間でも日当たりの良い斜面であったと想像される。それを覆い隠すように新道が付けられた為、新旧道にサンドウィッチされる形で墓場だけが取り残され、日中でも日差しがほとんど見込めない鬱蒼とした近寄り難い場所となってしまった。

旧道が今も辛うじて通行を許しているのは、少なからず定期的に墓参りに訪れる末裔がいるからで、もしもこの辺りが墓地でなかったとしたら、とっくの昔に徒歩での踏破も厳しい激藪と化していたに違いない。新旧道の交点から100m少々で二手に分かれた道は再び交わる。

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行き交う者の多くが関知しない新旧道の交点

ほんの僅かな区間ではあるが、往時を偲ばせる路が現存する御蔭で、一時代前の伊田乢がどのようなものであったのかが、おぼろげながら見えてくる。墓場の裏を通る砂利道は、どう頑張っても幅員が4mに届かず、平均幅員は3m前後と豪く狭い。そこは大型車一台がやっとの狭路だ。

昭和30年代に老夫婦が見た乗ったというボンバスは、果たして墓場の裏を通過したのだろうか?それとも盛土で仕上げた墓場の正面の新道を抜けたのであろうか?老夫婦によると、昔は溜池や墓場の合間を縫うようにして峠道を上っていたというから、ボンバスは旧道を通っていた公算が大だ。

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現存する旧道の現役時代を知る古老

仮に昭和30年代に墓場を迂回するバイパスが出来ていたとしても、墓場の裏側を回る山道をバスが駆け抜けたのはほぼ間違いないのである。何故そう言い切れるのか?それは昭和2年に赤磐自動車が、瀬戸駅と金川駅を連絡する6人乗りの乗合自動車を、1日2往復の体制で走らせているからだ。

現存する旧道が砂利道のままである以上、相当古い道筋である事は疑う余地がなく、我々が知る最晩期のボンネットバスは兎も角、その前進となる乗合自動車が墓場の裏道を疾走したのは確かであろう。旧道をバスが走ったか否かで白黒付ければ、バスは走ったが正解だ。

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県道53号線唯一の未改良区伊田地区内の狭い二車線

 ではこの道はいつ頃から車道として供用されたのであろうか?

わたしは明治四十三年に金川中学校に入学し、卒業まで歩いて通学しました。当時の峠道ですが、山口側は二つある下の池の土手を通って上の池の西側を登る急坂で、大八車がやっと通れるぐらいの道幅でした。峠の頂上には老婆が茶店を出していまして、金中の生徒が行き帰りに立ち寄っては、お婆さんを困らせていたようです。

明治の晩年には車道が存在した

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県道255号仁掘中御津線との交点

「おかやまの峠」には、明治29年生まれの小坂透氏の手記が掲載されている。そこには大八車が云々とあるから、明治の晩年には車両の往来を許す道が成立していたのだろう。それを裏付けるものとして明治30年の地形図には、伊田乢は車道を示す二重線にて描かれている。

その頃は峠に茶屋があったというが、その当時の面影はどこにもない。ただ金川側の一部に瀬戸と金川を結んだ乗合自動車が疾走したであろう旧道が現存しで、墓場の裏側を通る片崩しの未舗装路が、辛うじて往時の様子を偲ばせている。

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