教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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東山峠(18)

★★★

東山峠(ひがしやまとうげ)の取扱説明書

我らがバイブルツーリングマップルに未記載の峠が数多存在する事に気付いて久しい。個々の理由は定かでないが、廃道のような危険な道については警察から載せてくれるなとの要請があったと聞くし、紙面上のキャパの問題もあろう。ただバスの停留所に峠名がそのまま採用されている場合、未掲載というのはどうにも腑に落ちない。それも県民なら知らない者はいないという知名度を誇る東山峠とあらば、意図的に排除したと捉えられても致し方ない。新幹線停車駅から僅か3kmの至近距離、且つ県内屈指の交通量を誇る主要路ときているから、県民感情としては全く以て看過出来ない。現場は市街地から山を越え市街地へ至る紛れもない峠道で、いかなる車両もそれなりのストレスを伴う峠然とした道程だ。県を代表する峠が市販の地図に未掲載というギャップを埋められるかどうかは定かでないが、普段意識せずに行き来するこの峠道に対する県民の見方が、報告書を一読する前と後でガラリ一変するであろう事だけは間違いない。

 

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起点の門田交差点からまっしぐらに東山公園へと突き進む県道28号岡山牛窓線。その行く手を阻む深々とした掘割のインパクトは大で、峠を越えるに当り避けて通れない第一障害として記憶に新しい。道幅が広くはない掘割の真只中にバス停を配置する苦肉の策も相俟って特に印象深い。

スケールとしては辛香峠の1/5といったところだが、その掘割が無ければ事実上車両の往来は不可能な訳で、昭和新道の敷設より遥か以前に人為的に障害が取り除かれたのは間違いなく、それは晩年に乗合自動車も走ったとされる馬車道の起源、即ち明治時代の道路遺構と考えるのが自然だ。

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掘割に隣接する幅広の石段が明治期の車道で、当初は第一障害を直に乗り越えていたのではないか?その丘越えを後年石段に仕立て直し、公園として整備したという見立てで周囲を探索したものの、対となる西大寺側の坂道らしきものを捉えられず、自身の中で明治期の掘割であろうとの結論に至る。

勿論公園として整備する際に西大寺側の坂を埋め立てる等の大幅な地形改変が試みられ、一切の痕跡を残さない完全消滅という可能性も否定出来ない。何故なら門田交差点から東山公園まで県道筋を丁寧に辿って来ると、石段に乗り上げるのが線形的にとてもナチュラルに映るからだ。

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令和を生きる我々現代人の視界に映るパッと見の現況のみで判断すると、南北に連なる東山公園の砦とも呼べる小規模丘陵を東西にオープンカットしたのは、明治年間との解釈が妥当だ。この規模を遥かに凌ぐ超絶な掘割で度肝を抜く辛香の絶壁を見る限り、東山峠の第一障害など朝飯前だ。

相互通行が可能な上に歩道まで備える現在の仕様になったのは戦時下で、当初は現在の半分以下の狭き門であった事は、サミットのショボさからも疑う余地がない。その第一障害の開削時期と東山峠の馬車道成立時期はイコールで、明治年間のどこかでスムーズな車両の往来が約束される。

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問題はその時期にある。東山公園の掘割に隣接する石段が最古の車道、即ち道路跡であるならば、当レポートは既に幕を降ろしている。明治黎明期の車両は第一障害を直に鞍跨ぎする形で乗り越えていたとすれば、東山峠は明治新道と昭和新道の二本立てで説明が付く。

現時点で馬車道と自動車道は詳らかになった。しかし依然として判然としないものがある。明治黎明期の車両はどこをどう伝っていたかだ。東山峠の開削が辛香峠と同じく明治20年代であるならば、必ずこの疑問にぶち当たる。一体全体人力車はどこをどう伝っていたのかと。

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またか!と言われるかも知れないが、何度でも言おう。江戸時代の長きに亘り陸上交通の主役を担ってきた駕籠が東京から姿を消したのが明治3年。同4年にはその全てが人力車に置き換わっていた事から、置換に要した期間は僅か1年足らず。パフォーマンスの差は歴然であった事を物語るエピソードだ。

そりゃそうだ、だって二人掛かりでないと成立し得なかったものが、ワンオペで済むんですもの。その後人力車は瞬く間に全国に伝播し、市街地並びに関東などの平野部に於いて駕籠は完全に駆逐される。文明開化の象徴とされる鉄道の開業以前に、陸上交通の地殻変動は既に起きていたという事実がある。

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明治元年に新橋⇔川崎間に外国製の馬車が疾走したのが本邦初の乗合馬車とされるが、開業に携わった人物の末裔の伝承でその真偽は定かでないが、間違いないのは新橋⇔横浜間に鉄道が開業する明治5年9月まで乗合馬車が代替輸送しており、その時点での最大のライバルが人力車であったという事実だ。

文明開化の象徴として陸蒸気にスポットライトが当るのが常だが、当時の般ピーは馬車も人力車もびっくりドンキーな訳で、人畜力による原始的な運用形態ではあるものの、陸路は徒歩移動一択という常識がある中で、歩きで丸一日を要した東京と横浜が日帰り圏になった衝撃は計り知れないものがある。

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当然その利便性は特定の地域に止まるはずもなく、地方から出てきた者が見聞き或いは実際に乗車する等の実体験を経て、持ち帰った情報を地元で大いに撒き散らす。それに触発されて我も我もと視察に行くのが世の常である。

はるばる東京へ上京する必要は無い。新橋⇔横浜間で乗合馬車VS人力車のデッドヒートが繰り広げられていた鉄道開業の夜明け前、まださざ波程度に過ぎないが、静かにそして確実に岡山県下に人力車の波が押し寄せていたのである。

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