教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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若松峠(7)

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若松峠(わかまつとうげ)の取扱説明書

若松峠、市販のどの地図を広げてもそのような名称は刷られてはいない。勿論国土地理院1/25000スケールも例外ではない。北海道の峠を網羅する三浦宏氏のリストからもその名を拾い挙げる事は出来ない。果たして若松峠なるものは実在するのだろうか?答えはYESだ、それも国道の峠である。恐らく多くの者が気付かぬうちに素通りしている。僕もその一人だった、ある古写真を見るまでは。トンネルあるとこ旧道アリ、若松峠は道路業界の原理原則を再認識させてくれる尊い存在で、日常的に行き来する道にも何がしかのエピソードが有る事を教えてくれる。また煮ても焼いても食えなさそうな雑魚も調理次第でどうにでもなる案件で、取り扱う者の腕が試されるデリケートな物件でもある。だが若松峠から目を逸らす事は出来ない。太櫓越へのトライアル的立ち位置から、道路業界に身を置く者として避けては通れない。今宵知らないようで知っている若松峠の今昔を徹底追求する。

 

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◆反転する頂上付近は水溜りでぶっちゃぶちゃの悪路

昭和5年秋に今金まで延伸開業した瀬棚線は、じわじわと水上を追い詰め、最後の総仕上げにかかる。全線開通は昭和7年の秋であるから、残された時間は僅か2年足らず。さあ、どうする?瀬棚⇔今金間のピストン輸送で汽車のお零れを頂戴するも、最早同路線での命脈は尽きている。

窮地に立たされた水上であったが、次ぎなる一手を打つべく別路線での営業を彼は模索していた。そこで目を付けたのが瀬棚線の終着駅から更に足を伸ばす、乗継客を目当てとする新路線の開設であった。氏が照準を定めたのは太櫓越を経て久遠に至る、横断線に負けず劣らずの長大山岳路線である。

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◆頂上付近で反転し南進開始するも稜線は越えていない

道中には若松越、太櫓越の二つの峠が立ちはだかり、特に後者は江戸時代より蝦夷三大難所に数えられる難所として知られ、踏破難易度は渡島半島横断線の比ではない。当然真っ当な陸路は皆無に等しく、いまだ鉄道計画すらない陸の孤島である。氏はそれを承知で難所の鉄道連絡輸送に舵を切る。

江戸年間に唯一無二の人畜道として名を馳せた太田山道。それに代わる新時代の路が明治31年に供用を開始する。それが今日の国道229号線の祖となる太櫓山道で、明治22年に運用を開始した函館⇔瀬棚間定期陸送が、同31年を以て全線馬車輸送に切り替わったとする説がある。

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◆峠より交通量が激減するのか路面状況が怪しくなる

明治42年には太櫓越の頂上に駅逓が設置され、長大山道を行き交う旅客に便宜を図っている。徒歩移動者の為の御休処である駅逓の存在が、明治最晩期に於ける太櫓山道の車道説を否定しかねぬが、馬車或いは乗合自動車と駅逓には一定の重複期があるのは、道内の数多の事例にみる通りである。

自動車に乗れる人間は限られた極僅かな者に過ぎず、経済的に余裕がある者でも通常は馬車移動であり、その他大勢は徒歩にて峠を越していた時代である。長大山道たる太櫓越での駅逓の設置は当然の措置で、昭和19年の廃業日まで通行者のオアシスで在り続けた。

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◆山道は頂上より下りに転じてはいるが南側斜面のまま

水上の乗合自動車が久遠線の営業を開始したのは昭和9年で、駅逓との重複期間は約10年の長期に亘る。馬車便の場合は駅逓での馬の水分補給が必須業務で、肉体労働であるがゆえの休息も必至である。従って荷馬車にしろ乗合馬車にしろ駅逓に頼らざるを得ない。

また駅逓の管理人も馬車業者から齎される海産物等の恩恵に授かっていたはずで、彼等が持ちつ持たれつの関係にあったのは想像に難くない。一方自動車の場合はわざわざ峠で停まる理由がない。最速を売りにする乗合自動車は、パンクやガス欠等の不具合が発生しない限り駅逓に立ち寄る意味がない。

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◆稜線を跨がない山道は完全なる土道と化す周回路

大正年間には既に若松峠を越える馬車の存在が認められる事から、瀬棚⇔久遠線間に定期馬車が走っていたと考えるのが自然だ。強力なライバルの出現で自然淘汰される運命の乗合馬車であるが、駅逓の廃業年から察すれば戦時中まで現役を張った可能性がある。

大衆相手の鈍行便として細々と生き永らえていたとしても不思議でないし、戦時下のガソリン不足を補う代替手段としては極めて妥当だ。また昭和中期まで冬期は定期馬橇が欠かせなかったという証言から、昭和30年代まで馬車業者との棲み分けが出来ていた可能性も否定出来ない。

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◆真の頂上は偽頂上手前のヘアピンで北側に道は無い

いずれにしても人畜力が機械に勝てるはずもなく、衰退するのは時間の問題でしかなかった。昭和7年秋に開業した瀬棚線であったが、水上はすぐには動かなかった。氏は隧道の供用開始を以て久遠線の運用を開始する。僕はこれを消え行く者へ配慮した武士の情けと解釈した。

ところがその説を根底から覆す驚愕の事実に直面する。無い、峠の北側が見当たらないのだ。間違いなく僕は稜線上に立った。そして砂利道を頂上から下りに転じた。ところが下り坂は稜線の南側に位置する。南側から登坂し南へ下山する、つまりこの山道は峠を越してはいないのだ。

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◆大正年間に若松峠を越えていた乗合馬車

峠の北側はごっそり消失している。即ち若松峠は峠の片側のみが現存する片峠なんである。では隧道掘削中はどうやりくりしていたのか?一旦海岸線に出る迂回路を経由していたのだ。現在もその通路は現役路線として存在する。そもそも食うか食われるかの世界に武士の情けって(笑)そんな美談ある訳ないじゃん。

そだね〜

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