教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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礼文華峠(26)

★★★★

礼文華峠(れぶんげとうげ)の取扱説明書

猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられる礼文華山道。長万部から豊浦にかけて大小連なる複数の峠の総称で、それぞれが距離も高低差も難易度も異なる多様性に富む峠越えの中で、筆頭格にして総大将と目されるのが礼文華峠である。かつては死を意識するほどの恐ろしく逝かれた山道であったが、歴史道として再認識されて以降整備が著しく、今では尤も探訪し易い楽勝コースと化している。それが良いのか悪いのかは人それぞれであるが、存在自体がほぼ否定されたに等しい完全廃道時代から、有志による刈り払いが実施された浅藪時代を経て、ハイキングコース化した現在に至るまで武四郎宜しく向こう三度に亘り路の変遷を垣間見た僕なりの視点で、この峠の酸いも甘いも語り尽くす。

 

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◆不思議な事に出口に近付くにつれ藪密度が増す

1級国道37号線の静狩国道のうち、とりわけ礼文峠地内にあっては、縦断勾配10%を越す急勾配が随所にみられ、ヘヤーピン型の屈曲、数十箇所、有効幅員約5.0mで道南と道央を結ぶ重要幹線道路ながら、その輸送機能はいちじるしくそ害されている。ここに、道路整備5箇年計画により、礼文峠の真下に延長1126m有効幅員6.5m、内空断面38.2m2、縦断勾配1.5%の直線隧道が計画され、昭和37年度より4箇年にわたり工事が行なわれることになった。

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◆藪化は一時的で再び鮮明なダブルトラックに導かれる

道路整備五箇年計画

明治27年の一般供用開始以来大規模な改修が成されぬまま戦時下に至り、戦後もしばらくは修繕の目途すら立たない放置プレイ状態にあった山道は、昭和28年の国道再編を機にスピード出世を果たす事となる。

時同じくして国鉄もまた第二次五カ年計画の真只中にあり、先行する静狩駅⇔小幌駅間の複線化に続き、小幌駅⇔礼文駅間の複線化で礼文華峠区の全線複線化という悲願成就の渦中にあり、国道と国鉄はまさによーいドン!の状態にあった。

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◆ほぼ横這いの緩やかな坂道を延々と下り続ける

国道の新道開通が先か、それとも国鉄の複線化が先か、互いのメンツを懸けた激しいデッドヒートが繰り広げられる。礼文華峠の旧時代に引導を渡すのはこの私だ、一歩も譲らぬトンネル掘削工事は昼夜を問わず続く。だがどちらも順風満帆に進捗した訳ではない。

鉄道は小幌駅が置かれる87mの僅かな空間を利して、上下線合わせて120本/日の列車を捌きながらの気の抜けない作業で、資材の全てを海上輸送で調達する離れ業をやってのけたし、道路は道路で軟弱地盤箇所での覆工断面に変質が生じ、二度に亘り工事の中断並びに設計変更を余儀なくされている。

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◆元国道とは思えない白樺並木の気持良い散策路

どちらも削岩機が主役を担っているとはいえ、今のように覆工まで機械任せという時代ではなかったから、鉄道と国道の重複工事は万単位の人間を必要とした。道の内外を問わず多くの労働者がこの地に集結し、古来蝦夷三大難所として恐れられた難所の克服に汗を流す日々が続く。

労働者の受入先となったのは各現場に直結する駅前旅館で、静狩・礼文・大岸・豊浦の各駅前旅館は出稼ぎ労働者で満員御礼であったという。中でも特筆すべきは小幌駅の民宿で、伝説の漁師陶文太郎氏が経営する民宿が、礼文界隈で一二を争う売上を誇ったと語り草になっている。

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◆案内板と相反するチェーンゲートの長万部側出入口

存続の危機に晒される日本一有名な無人駅小幌、そして移動手段としては誰も利用しなくなった山道は、昭和30年代後半から同40年代初頭にかけて空前の人々で賑わい活況を呈す。信じ難い話だが唯一無二の連絡路として機能する山道は、現場監督や御偉方を乗せた車両が頻繁に行き来する状況にあった。

我々現代人がその頃の様子を想像するのは限りなく困難に思われる。だが軍艦島と呼ばれる端島がそうであるように、道路にも鉄路にもかつての喧騒を裏付ける物証が確実に存在する。小幌駅から徒歩数分の海岸伝いには、昭和47年まで営業したとされる民宿の石垣が認められる。

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◆森林施業用作業道に成り果てた事を知らせる案内板

また礼文華峠の頂上には何等かの建物が存在したとしか思えない木製の電柱が、今この瞬間も誰にも気付かれずに風雪に耐えている。現況のみで精査した場合、我々はただただ元国道という肩書とのギャップに驚愕するばかりで、なかなか物事の本質に迫る事が出来ない。

また礼文華峠のみに焦点を当てて話を進めても、礼文華山道なる長大山道の全体像は掴めない。大凡半世紀前のこのエリアは道路は離合困難な一本道が当たり前で、鉄路は小幌駅の前後で辛うじて列車の交換が叶う単線が常識であった。当時の人々はそれらを当然の事として受け止め日常を過ごしていた。

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◆すっかり自然に還った昭和新道に合流して峠区は終了

昭和新道敷設プロジェクトが動き出した昭和37年現在の礼文⇔大岸間の交通量は、157台/日と記録されている。そのまま峠へ直行した車両は八掛けで125台、半分と見積もっても78台に留まる。それが上下線合わせての台数で、道内屈指のビジネス路線と称される大幹線路の片鱗は垣間見えない。

明治中期から昭和中期にかけて主役を担った初代の車道にして旧国道の正体はいまだ判然としない。だが大岸峠⇒チャシ峠⇒礼文華峠と紐解く中である程度全体像は見えてきた。いよいよロード最終章静狩峠にて礼文華山道の真髄に迫る。

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