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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>北海道>チャシ峠 |
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チャシ峠(16) ★★★★ |
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チャシ峠(ちゃしとうげ)の取扱説明書 猿留山道及び雷電山道と並び蝦夷地三大難所に数えられる礼文華山道。その完全制覇を試みるにあたり外せない区間がある。それがチャシ峠だ。恐らくドライバーの十中八九は現場が峠越えである事実に気付いている。しかしそこに峠名を配した地図は皆無に等しく、その他諸々の書物に於いても完全スルーを決めている為、一般にチャシ峠が公然と語れる事は無い。しかしこの峠抜きに礼文華山道は語れない。道路・鉄道共に難所の痕跡は随所に垣間見られ、長大山道の一角を成す難コースという現実を認めざるを得ない。現場は一時代前の北海道の道路事情を今に伝える格好の舞台で、礼文華峠と大岸峠の中継ぎというよりもチャシ峠そのものが主役級の逸材で、この報告書によって我々はチャシ峠がけして脇役でない事を強く意識するだろう。 |
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◆室蘭本線と並走して礼文市街地へと雪崩れ込む道道 中山峠越えの路は明治3年7月起工で、竣工が明治4年10月と工期は異常に短い。総延長が100kmを越える長丁場である点を踏まえれば尋常でないハイテンションで、かの三島通庸も舌を巻く超人的な突貫工事は、あの囚人道路をも凌ぐ離れ業と言っても過言ではない。 厳冬期の遅延や中断を加味すれば宇宙人が加担したのではないかと疑いたくなるほどで、実稼働日はたったの400日前後で仕上げたのかと思うと、モアイやピラミッドといった世界に名立たる謎多き建造物に匹敵する偉業である事は疑う余地がない。しかも土木については素人同然の僧侶が施主となると尚更だ。 |
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◆道道のゲート位置と絵図の階段が重なる市街地の外れ 中山峠の工事は常識的には有り得ない一件であるが、これには世紀の一大事業を成し得る為のちゃんとした裏がある。東京を出発した僧侶は青森まで徒歩にて移動している。何故海上ルートで一気に北上しなかったのか?それは移動中に北の大地への移民を勧誘するという思惑があったからだ。 陸路を移動する事により政府に出願した目的の農民移植と教化普及が同時に達成される。しかも先行する僧侶の後を追ってくる信者が、教祖の意に反し道普請に参加しない訳がない。僧侶は言うだろう、この地に根付こうとしているあなた方も今後この道の恩恵を授かる受益者の一人なのですよと。 |
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◆駅前旅館等も認められる市街地は閑散としている そう言われて加勢しない方がどうかしている。北上途中の僧侶の甘い誘いに乗って多くの者が北の大地を目指したのは想像に難くない。東本願寺の僧侶を筆頭とする大名行列の如し一団を目にした人々は、先行する噂と共に恐らくこう思ったに違いない。北の大地に行けば一旗挙げられるのではないかと。 今の生活よりもマシと考えた者が便乗するのは至極当然で、人が人を呼ぶ倍々ゲームで同行者の数が膨れ上がったとしても何等おかしくはない。気のみ気のままに同行する者に加え、後から追随する者を合わせた数は数百ではきかず、恐らく数千人単位に膨らんでいたのではなかろうか。 |
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◆今も細々と運行される礼文と豊浦を結ぶ路線バス それに将来の受益者となる沿線住民やアイヌの加勢も相当であったとされ、一節には述べ5万5千余人規模に及ぶ壮大な工事であったとされるが、カウントされていないアイヌが土台となったであろう点を踏まえればその数は更に増え、下手こくと国家的規模の一大事業であった可能性は否定出来ない。 だとすれば中山峠が僅か1年程度で日の目を見たのも頷けるし、その余波で礼文華山道に洞門をぶち抜いたのも全く以て不自然ではない。恐らくざっくりとではあるが二つの洞門は開口した。それに通じる板橋等も架橋された。しかしそれらはほとんど使われる事なく朽ちてしまった。 |
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◆礼文華峠へ通じる旧国道と道道608号線の分岐点 何故か?それは新政府肝入りの次世代型高規格道路の出現によるもので、札幌から千歳と苫小牧を経由し室蘭に至る一大幹線道路、札幌本道が竣工したからだ。 完全なる馬車道の札幌本道 中山峠が竣工した明治4年の僅か2年後に峠を介さないほぼほぼ平坦路の札幌本道が供用を開始する。しかも本道は馬車道仕様であり人畜の通行しか許さぬ中山峠とは次元が異なる。通行人がどちらを選ぶかは言わずもがなで、札幌本道の出現で中山峠の荒廃は決定的となった。 |
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◆室蘭本線と立体交差する昭和40年代の後付道 タッコブと岩見の二洞は恐らく明治黎明期に日の目を見ている。文献にある二つの洞門という具体的記述も後押しし、実作業動員数から察しても、また短隧道というスペックからも違和感を覚えない。むしろ武四郎の助言ありきの行動から、当然の帰結と考えるのが自然だ。 しかしイザベラバードが通過した明治11年現在には放置プレイ全開で、岩肌に大穴がぱっくりと口を開けてはいるものの、そこへ至る板橋は波に浚われ用を成さなかった。かくて徒歩にて礼文華山道縦走を敢行するバード女史は、従来の崖上道を辿る以外に術はなかった。 |
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◆大岸隧道経由の国道と海岸経由の道道との交点 これはあくまでも僕の憶測に過ぎない。史実と考察から導き出された可能性のひとつである。ただ一つだけ確実に言えるのは、僕の打ち立てた仮説を誰も否定出来ない事だ。明治黎明期の二洞同時竣工説を完全否定されるとしたら、それは覆し様のない決定的な物証が掘り起こされた時である。 火の無い所に煙は立たない。となるとチャシ&飛鳥デビューの可能性もゼロではない。胆振リトルスィングと共にへなりプロデュースで芸能界への参入を虎視眈々と狙っているのはここだけの秘密である。 チャシ峠15へ戻る |