教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

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花石峠(8)

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花石峠(はないしとうげ)の取扱説明書

花石と聞いてすぐに北海道は道南の今金町のあの花石か!と思い浮かぶとしたら、余程の北海道通か当地生え抜きの人間に限られる。しかも花石峠の存在自体を認識しているとなると、もうその時点で廃道コンシェルジュを名乗ってもいい。何せ廃道仙人掘淳一氏率いるコンターサークルSが徒歩による縦走にも拘らず断念せざるを得なかった重鎮御墨付の強烈廃道である。廃道スナイパーの狙撃対象としては申し分ない格好の題材だ。現状を想像するだけでも武者震いするが、ターゲットは美利河峠の終点である花石郵便局から目と鼻の先に位置する。美利河峠の今昔を白日の下に晒した今、返す刀で花石峠を攻略しない手はない。美利河と花石の二部構成による後編の作戦名は、下町ロケットガウディ編に便乗しアウディ計画とする。アウディR8でどこまで突っ込めるのか?その辺も見極めつつ全貌を解明すべく侵攻を開始する。

 

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◆見通しの利かない完全一車線の路が続く

道路整備のエキスパートたる道路看護人の出現を待たずして、路盤改良の必要に迫られた人々は自ら動いた。行政が重い腰を上げるのを待っていても埒が明かない。仕方なく無料奉仕をした訳だが怪我の功名とでも言おうか、この時の能動的な行動が生命線たる利別山道への道路愛へと繋がっていく。

昭和十三年檜山道路愛護共励会主催コンクールに於て、金山道路が管内五位入賞、翌年には稲穂道路が三位、翌十五年には種川道路が一位入賞し、道路修繕・砂利敷工事など部落をあげての努力を惜しまなかった。

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◆急カーブとトラバース区間がほとんどで直線は稀

昭和に入ると道路整備のコンクールが催され、人々は競う様にして悪路の修繕を図った。子供から老人まで部落総出で行われた改修工事は、沿道の出来不出来を競わせる事で人々の心に火を付け向上心を煽った。この人々の競争心理に働き掛ける巧妙な罠をどこかで見た事がある。

そう、総延長163kmに及ぶ幹線道路を僅か8ヶ月で竣成させた中央道路、所謂囚人道路がそれだ。囚人達を何班かのチームに分け、チーム同士を競わせランキング形式で上位から次の楽な工区を選べるというシステムで、炎上ビジネスやAKB商法など足元にも及ばぬ近年稀に見る極悪非道システムである。

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◆頭上が明るくなりかなり上り詰めてきた感がある

檜山界隈では少々事情が異なるが、許認可は下すが金は出さない有名無実な自治体が、人々の不満から目を逸らす為にコンクール形式にすり替え、道普請の名の下に大人から子供まで家族総出で労働奉仕させるも、当の般ピーは怒りどころか勝った負けたで一喜一憂しているのだから、仕組みは秀逸だ。

昭和十七年には八束道路が三位に入るなど部落の道路愛護の念も強く、全道一斉の秋季皇霊祭は勿論のこと、春の皇霊祭の日にも努力を惜しまず、道路敷地の寄贈があったり灌漑費や橋架換工事の寄付なども多かった。

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◆山道は植林松の真只中を右往左往しつつ高度を稼ぐ

戦前・戦中と人々はお上によって仕組まれた苦労を苦労と思わない巧妙な戦略によって、無償で労働力並びに土地や金銭をも提供するばかりか、その行為自体を地元愛・道路愛と思い込み、誇りさえ感じている馬鹿な人達がいた。官にしてみれば道愛ビジネスしてやったりである。

昭和五、六年頃部落では道路愛護組合があって、この組合が中心になって道路改修工事を行っていた。バラスはほとんどシュブンナイ川からあげ、ここから道路まで結構な道程を馬車で運ばねばならなかった。

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◆短いが稀に見通しの良い直線区間が認められる

まさか巧妙に仕掛けられたトラップに嵌まっているとも知らず、山田氏は直近の川で採取した玉砂利をせっせと現場へと運んだ。何だかな〜と自身の行動を顧みる余裕などない。胸まで浸かる泥炭路はバラスを投じなければ埒が明かない。それにボケ〜っとしていると、あっという間にあの寒い冬がやってくる。

冬期は橇を使って冷たい川の砂利を採取したものだった。毎年毎年このようにして十年から十五年かけて旧道が完成した。新道ができバスが通っている今、泥炭の道を思い起こすと本当に畳の上を歩いているようで涙が出る。

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◆カラマツの回廊は当山道では希少な見通しの利く直線

父ちゃん情けなくて涙が出らぁ!が怒りと悲しみに満ちた台詞であるならば、山田氏の涙は自身の苦労が実結した際の嬉し涙であろう。山田氏も名を連ねていた道路愛護組合は明治34年に端を発する。この年利別村は道路清掃組合を結成し、毎月道路デーを設けるという徹底ぶりであった。

それ以前の利別山道は春の雪解けや秋の大水などは決まって道路が崩れ去り、改修しては利用するの繰り返しであったというから、日常的なメンテによる道路の強靭化は目を見張るものがあり、それが高じて渡島半島横断道路の全面改修の機運が高まり、刈分道から馬車道への大改修は必然となっていた。

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◆視界前方のくの字カーブを曲がると環境は一変する

明治42年の秋、後に横断鉄道期成会にも名を連ねる利別村の今村藤太郎が、道庁に対し仮定県道改修請願書を提出する。道会議員新井幸作との太いパイプを利して、半島横断馬車道の必要性と早期成立を強く訴えた。

これが功を奏し翌年には瀬棚⇔国縫間を乗合馬車が疾走する事になるのだが、道庁に提出した「利別山道改修の義に付請願」の一文に、美利河峠と対を成す障害の名がはっきりと示されているのを僕は見逃さなかった。

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