|
教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
|
|
トップ>旧道>岡山>鎧乢 |
|
|
鎧乢(6) ★★★ |
|
|
鎧乢(よろいたわ)の取扱説明書 津山と勝田を結ぶ現在の国道429号線の礎を築いた津山真加部街道。その道中には二つの峠が存在する。ひとつは言わずと知れた出雲乢であるが、もうひとつの難所が鎧乢である。何だか戦国時代の戦をイメージさせる名称で、古来峠が戦の舞台となってきた歴史的事実を踏まえれば、この峠にもきな臭い伝説・伝承があっても全く驚けない。だが実際の現場は意味深な名称とは裏腹に、宗谷丘陵にも似た起伏の緩い穏やかなアップダウンを駆け抜ける快走路となっている。通勤・通学・ドライブといかなる車両も足早に過ぎ去る峠を敢えてスローモーションで通過すれば、通常では見えないものが見えてくる。それが旧道や街道といった古道筋の断片だ。散在するパーツを丁寧に拾い集め、一介の街道が国道昇格を果たすまでの軌跡を紐解く。 |
|
|
|
◆ 見てくれ、この垣根に沿った糞狭い小径を。狭いと言っても単車との比較で一目瞭然であるが、軽トラ一台が何とか通り抜けられるレベルにある。勿論歩行者との擦れ違いは叶わないが、軽自動車一台が往来出来る規格を有している。つまりそれは単純な歩道でない事を意味する。 有史以来こいつが純粋な歩道であったならば、今日のレベルまで拡張される事はなかったであろう。何せベースとなる津山真加部街道は一介の脇往還に過ぎず、五街道に準ずる出雲街道のような大道とは訳が違う。人一人が行き来可能な小径で事足りていたはずである。 |
|
|
◆ それに明治27年には田園地帯を貫く新設の馬車道が成立しているから、全く以て幅員1m以上の路の必要性は無い。しかし現にこうして軽自動車一台の通行がギリギリの小径が、頂上付近を目指し緩やかな勾配で上り詰めている。右手には二車線の現国道、その外側を1.5車線の旧道が乢を越している。 配置的には小径・現国道・旧道という並びで稜線を越える三者が無関係でない事は、道路を齧った者ならば直感的に見抜けない方がおかしい。小径の使途は別にして、三者が親子関係にあるという所まではすんなりと辿り着けるはず。問題は小径が車道か否かという点である。 |
|
|
◆ そこだけは場数を踏まないと読み切れない。この小径を車両が行き来したシーンを目撃した者は恐らく皆無に等しく、聞き取りでの成果は全く期待出来ない。何せ今日現在この小径は目と鼻の先に位置する勝央北小学校並びに植月保育園の通学路として利用され、車両の通行云々という状況にはないからだ。 現国道筋にも真っ当な歩道が併設されてはいるが、脇見運転等で四輪が歩道に突っ込む事件が後を絶たない昨今、少しでも安全な場所を求めてか1m以上の段差があるこの小径を伝い、ちびっ子達が元気良く登下校している。勿論彼等はその下地が何であるかなど知る由もない。 |
|
|
◆ 当たり前だ、現地の住民は昔からある歩道程度の認識しか持ち合わせておらず、街道ウォーカーも津山真加部街道の残骸程度にしか思ってはいない。まさかそいつが一時期車道として機能した事など想像すら出来まい。明治の半ばには真っ当な馬車道が成立していたのだから当然と言えば当然だ。 現実として車道として供用されたのは明治23年以前であり、最盛期である明治10年代から20年代前半にかけての僅かな期間に、この小径を颯爽と駆け抜けた車両について語れる者は皆無である。期間が余りにも短過ぎて語り草にもならないのか、それとも利用実績が乏しいからなのかは定かでない。 |
|
|
◆ いずれにせよ御偉方と富裕層に限定された乗物は、何日も通らない事もあれば一度に何台も連なって来る事もあり、基本的には忘れた頃にやって来る程度の利用率であったのは間違いない。それでも日々増加傾向にある車両の往来に対応すべく、村は明治15年に新道の敷設に着手している。 江戸末期には道幅は三〜六尺ほどで、そのころ茶屋の出店・旅籠ができた。明治に入っても道幅は牛一頭がやっと通れる程度で、曲折が激しく勾配があり、さらに小川などがあったため大八車は利用できなかった。 |
|
|
◆ 江戸末期の出雲乢には家が一軒しかなく、夜は一人で歩けない寂しい場所であったというが、明治維新前夜には峠に茶屋や宿泊施設が建ち並び、旅人が一服一泊可能なほど拓けたという。幕末から明治黎明期にかけての津山真加部街道の幅員は、1〜1.8mで大八車が利用不可であったとされている。 部分的に道幅が1.8mもあったとすれば御の字で、道普請によって全体を2m前後で統一するのは容易い。重量物を運搬するのが前提の大八車は不可であっても、軽量身軽な車力や人力車が新道敷設以前に行き来していたのは間違いなく、大八車がNG=人力車等の軽車両がNGとはならない。 |
|
|
◆ 勝間田⇔真加部(現勝田) 一人乗り人力車賃48銭 津山⇔真加部(現勝田) 一人乗り人力車賃96銭 この界隈を乗合自動車が疾走する前夜の大正6年に改正された人力車賃銭表には、出雲乢並びに鎧乢を越えた人力車の存在がはっきりくっきりと示されている。そいつが明治23年以降改定に次ぐ改定で運用されてきた唯一の公共交通機関とされているが、大八車が利用出来なかった事の裏返しとして、人力車が利用していたとの解釈が成り立たなくもない。騙し騙しの運用ではあろうが、明治10年代の植月村界隈を人力車は往来していた。現存する旧旧道筋は我々にそう訴えかけている。 鎧乢5へ戻る |