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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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右手峠(26) ★★★ |
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右手峠(うてとうげ)の取扱説明書 美作北部の県境に一際存在感の薄い峠がある。県道智頭勝田線と呼ばれる主要路で、曲りなりにも県界を跨ぎ一桁県道という肩書を持っている。しかし左右を志戸坂・黒尾越えの両雄に挟まれている為か、大方のドライバーの眼中には無いに等しい峠道で、実際に平日の通行量は主要県道とは思えぬほど閑散としている。断っておくが当物件は旧廃道に乏しい期待薄の峠道である。右手峠はその期待値に違わぬつまらなさで見事に応えてくれる訳だが、どうしても当路線を取り上げない訳にはいかない必要に迫られた。その理由は他でもない黒尾峠の存在感を際立たせる為だ。脇役あっての主役だとすれば右手峠は名脇役として外せない存在で、肉じゃがのじゃがいもに相当する必要不可欠な具材で、それ無くして肉じゃがは成立し得ない。新旧道の比較も大事だが並走路線との対比もまた重要で、両者の相乗効果は計り知れないものがあるし、峠道に対する見方が大きく様変わりするかも知れない。本件はセンセーショナルな旧廃区に頼らないレポートが成立するか否かの挑戦であり、またマイナー道路が主役に成り得るか否かの試金石でもある。黒尾峠のスピンオフとして右手峠を成立させるべく、県道の今昔を余す事なくここに封じ込める。 |
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◆軽自動車の行き来すら危ういコンクリ製の短橋梁 どうやら僕の見立ては大きく間違っていたようだ。右手峠はこの界隈に連なる中央分水嶺越えの路で、最も早い時期に車両の通行を許したのではないか。その仮説に基づいて検証を進めてきた訳だが、歴代の地形図を見比べると、僕の想像とは真逆の状況にあった事が露呈する。 明治31年現在の右手峠には旧道に存在するヘアピンカーブが不成立という状況にあり、即ちそれは明治30年代に入っても尚人々は旧態依然とした江戸道を往来していた事を物語る。次期修正版で登場するヘアピンカーブがその証左で、幅が2m近くもある複合橋もその際に架橋されたのであろう。 |
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◆橋梁を渡り終えると簡易舗装の坂を一気に駆け上がる 旧道筋を辿った先に待つ新田集落の外れには、コンクリート製に置き換わった小橋がある。その幅員は旧式の軽自動車が通れるか否かといったほど狭く、戦後になって敷設された完全なる車道が成立するまで、右手峠は事実上自動車の通行を許さなかったとの解釈が妥当だ。 どこよりも早く右手峠が車道の先鞭を付けたのではないか、その目論見は物の見事に外れ、車道としては最後発の草の原峠に迫る勢いであった事がほぼ確実となった。新道の成立時期は昭和27年〜同36年と10年近い開きはあるが、戦後に敷設された比較的新しい道である事だけは確かだ。 |
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◆パン屋裏手の急坂を上り詰めると現県道筋に合流する 右手峠は最後の最後まで路線バスの通り抜けを許さず、今日現在に於いてもその系統は日の目を見ていない。その理由が新道の開削時期と無関係でない事は明らかだ。遅過ぎた春と言ってしまえばそれまでだが、他の峠に比し右手峠が機を逸したのは紛れもない事実である。 何故そうなってしまったのか?街道筋沿線の人々は待っていたのだ。何を?鉄道の開通をだ。今でこそ鳥取と岡山を結ぶ鉄道は加茂経由の因美線と誰もが認識しているが、その経路が否定された時代があった。時は鉄道争奪戦の覇権争いに明け暮れた大正年間に遡る。 |
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◆新田地区の新旧道交点に街道を示す案内等は皆無 一足先に開通していた鳥取⇔智頭間の智頭線と接続する路線について、美作地域のどの経路を辿るかで揉めに揉めていた。その当時優勢であったのは智頭より右手峠を越え梶並村を経て勝間田に至る路線で、梶並ルートが加茂経由を差し置いて最有力候補として本命視されていたという事実がある。 現況からは全く以て信じ難いエピソードだが、当時の鉄道期成会の勢いを以てすれば、右手峠を陸蒸気が駆け抜ける可能性は多分にあったのだ。しかし結果的に鉄道誘致に失敗した梶並線は幻と化し、鉄道敷設に懸けていた沿線住民は絶望の淵に追いやられる。 |
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◆智頭側の梶並街道新旧道交点の正面に構える奥神社 村の盛衰を賭し全身全霊で挑んだ鉄道誘致合戦に敗れた梶並街道沿線住民の落胆ぶりは相当なもので、完全に燃え尽きたであろう事は想像に難くない。村民総燃え尽き症候群につき完全にヤル気ナッシングなのは明白である。そうこうしているうちに勝つ見込みのない不毛な戦争に引き摺り込まれる。 沿線住民は泣きっ面に蜂といった過酷な状況に置かれた。鉄道が駄目なら道路とすぐに頭を切り替えられるはずもなく、鉄道開通までの当座を凌ぐ為に拵えたなんちゃって車道一本で耐え凌ぐしかなかった。そんな人々のヤル気が盛り返してきたのは戦後になってからだ。 |
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◆梶並街道と県道7号線の分岐点の目印となるパン工房 戦争で何もかも失った人々に比し、戦争が始まる前から夢も希望も奪われた梶並街道の沿線住民の回復は思いの外早かった。車道の敷設時期は完全にバス黄金時代の機を逸しており、戦前に端を発する運の無さは戦後まで引き摺る事となるが、将来の国道昇格を見据えた一桁県道のポストを確保する。 新道建設がもう少し早ければ、黒尾峠&物見峠を出し抜く格好で当時の車道としては最右翼となり、今とは違った結果になっていたかも知れない。鉄道予定線の本命であったという過去の実績から、今頃は国道昇格も無きにしも非ずで、右手トンネルの成立はけして荒唐無稽な絵空事ではない。 |
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◆公に語られる事のない右手峠にみる車道の遍歴図 実際の右手峠は江戸道を梃入れしつつ騙し騙し戦後まで供用し続けた。そんな事例は明地峠くらいしか思い付かない。トンネルの開通まで幻の国道と呼ばれた明地峠同様、右手峠も車両の通り抜けを許さない幻の県道と呼ばれていたに違いない。 車両通行を許さない幻の県道 昭和30年代になっても尚峠越えの主力公共交通機関が人力車という失態は、対外的に単なる村の恥でしかない。しかし交通史的には歴史に埋もれし御宝物件で、本件は記憶にも記録にも残るレアケースとなったのは言うまでもない。 右手峠25へ戻る |