教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜

トップ>旧道>岡山>九の坂

九の坂(16)

★★★★

九の坂(きゅうのさか)の取扱説明書

この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、九の坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス九の坂の全てを白日の下に晒そう。

 

9無題.png

西川の支流を跨ぐ短橋梁の先で行き場を失う旧道筋には、かつて続きがあったのだと近隣住民は語る。その道程は現存する古橋を渡り終えた直後に90度で折れ曲がり、九の坂越えの山道が県道8号線にぶつかる交点付近に接続するという、我々が思いも付かないような線形をしていたのだという。

考えてもみてほしい。現県道8号線の笹尾橋が存在しない時分に、山越えの狭隘路か対岸へ折れ曲がる路の二択しかなく、しかも本線が山道で二つの橋を跨ぐ川伝いの路が支線であるなど、現道しか知らない一般的なドライバー感覚からすれば想像すら出来まい。

8無題.png

しかしラビリンス九の坂の全容を掴みつつある今の我々にとっては、容認し難い不都合な真実というほどのものでもない。笹尾橋を中心とする快走路の成立によって、あたかもその昔から現県道8号線筋が主役を張っていたかのように映るが、それがトンデモナイ勘違いである事は周知の事実である。

現県道8号線筋は言うに及ばず、その旧道筋でさえも後発の部類に属し、連続する二本の橋はどう割り引いても昭和の竣工である。大正年間には公共交通機関が成立していた九の坂越えの山道よりも歴史は浅く、歴史道としての貫録は山道が築き上げた実績の足元にも及ばない。

無題10.png

県道8号線の原型が地形図上に登場するのは昭和35年で、同34年の図ではまだ片側が実線で片側が点線の幅員1.5m未満の路となっている。歴代の地形図を鵜呑みにすれば、畑原で右岸に飛び移る県道筋が確立されたのは昭和30年代半ばとの解釈が妥当だ。

しかし現場に残された遺留品はそれに待ったをかける。現存する短橋梁は単なるコンクリ橋ではない。意匠に拘った橋は昭和30年代の量産型とは一線を画し、並みの氾濫ではびくともしない永久橋ここにアリを強く主張する。恐らく今は亡き片割れも似たような風貌であったに違いない。

DSC02832.jpg

パッと見は戦前に築造された昭和初期産の橋梁のようにも映るが、昭和30年代はまだ木橋が主役を担っていたから、地図に掲載されるまでのタイムラグを考慮しても戦後の架設と思われ、仮に二本の橋が戦前或いは昭和一桁の竣工であるならば、それはそれで興味深い。

昭和3年生まれの小谷集落の婆ちゃんが物心付いた昭和10年頃には、自宅の前に自動車一台分の道路があったというエピソードと符合しなくはないが、実際に自動車が往来していたか否かについての供述は曖昧で、それよりは布原の古老の証言の方が具体的で信憑性は高い。

DSC02840.jpg

それが昭和26年に路線バスが川面峠を越え、東城行きの他に足立方面のバスも存在したという逸話だ。氏は出雲行きの深夜特急バスにも言及しており、その信頼性は高いと僕は考える。その証言を後押しするのが昭和25年頃まで九ノ坂をバスが越していたという上市の古老談だ。

大正年間に営業を開始した九ノ坂越えのバスが、昭和25年頃を境に姿を消している。そしてその翌年には川面峠越えの路線バスが運行を開始し、足立方面にも足を延ばす別の系統があったという。直線距離にして約3km離れた互いに面識のない古老の証言はピタリと符合する。

DSC02842.jpg

足立方面と新見とを結ぶ路線バスは開業時から昭和25年まで九の坂を経由し、同26年からは川面峠経由に改められたのだ。その契機となったのが西川とその支流を跨ぐ永久橋の架設で、現存する古橋の幅員から川伝いの路が山道のそれを上回った事は容易に想像が付く。

それまで自動車一台の通行がやっとか荷車や馬車しか通さなかった脆弱な路が、ある日を境に大型車の通行を許す上に部分的に普通車同士の擦れ違いが叶う幹線道路と化し、九の坂越え山道から覇権を奪うと同時に、路線バスの経路を半強制的に変更させ、結果山道を廃道同然まで追い込んだのだ。

DSC02838.jpg

それまでの功績を湛え県は九の坂越えの山道を県道として存続させたが、小谷の婆ちゃんが言うように県道8号線旧道筋の成立により九の坂の求心力は瞬く間に失われ、すっかり過去の道に成り果てた。そして笹尾橋の完成によって九の坂を越える県道の存在意義は益々不可解なものとなっていった。

これがラビリンス九の坂の真相である。だが話はこれで終わらない。この界隈の交通事情を包括的に把握する為にはどうしても避けて通れない道がある。それが明治新道の成立以前に供用されていた最古の峠で、人はそれを苦ヶ坂と呼ぶ。

九の坂15へ戻る

トップ>九の坂に関するエピソードやご意見ご感想などありましたら一言どうぞ>元号一覧