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教育委員会が贈る歴史の道調査報告書、その傑作を補完して有り余る佳作、歴史の道踏査報告書〜古老の証言集〜 |
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トップ>旧道>岡山>九の坂 |
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九の坂(1) ★★★★ |
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九の坂(きゅうのさか)の取扱説明書 この峠に魅せられ現場を訪れる者は後を絶たない。遠くははるばる関東圏から遠征するくらいであるから、余程この峠には人を引き寄せる何かがあるのだろう。かくいう僕も東京から遠征したくちで、今でこそ現場は目と鼻の先に位置するが、かつてはそう簡単に行けない彼の地にあった。それでも遠征先のリスト入りを果たしたのは、先駆者を奈落の底に突き落とした数々の伝説があるからだ。その多くはマイカーによるチャレンジで、挑んだ者のほぼ全てがヒーハー!と雄叫びをあげる難所で、そこはディズニーランドも真っ青の大人のアトラクションが展開しているという。そう聞けば行きたくなるのが人情というもので、事実二輪による挑戦にも拘らず、楽勝という訳にはいかなかった。流石全国区の逝かれ道である。その時の印象は単にハードな道で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歴史的背景に目を転じた瞬間?が三つ並んでしまい、突破が目的の当時の僕にとってこの難題は余りにも荷が重過ぎた。しかし道路格闘家のみならず道路交通史家としての経験を積み上げた今なら、九の坂を筆頭とするこの界隈の交通事情の包括的な解明は必至で、迷宮が迷宮でなくなる時が遂にやってきた。今宵ラビリンス九の坂の全てを白日の下に晒そう。 |
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◆トンネル経由に改められた九の坂越えの昭和新道 トンネルの上にある鞍跨ぎの山道は旧道ではない。この想定外の事態に直面してから、一体どれくらいの月日が流れたであろうか。いつかはこの難題に正面から向き合わねばならないとは思いつつも、無意識のうちに新見と距離を置くようになり、現場は近くて遠い存在と化していた。 行こうと思えばいつでも行けると思うと、更に現場は僕の射程圏から遠退いた。そうこうしているうちに岡山県内の物件が掘り尽くされ、他県への進出を開始するか県北の大物物件に着手するかの選択を迫られた。果たして九の坂をパスして県外という選択肢に未来はあるのだろうか? |
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◆国道182号線より分岐する峠越えの山道の起点 僕はこの数年間にどれだけ成長したのかを確かめる為にも、九の坂とこのタイミングで対峙せねば嘘だと思うようになった。僕には確かな自信と勝算があった。国道53号線の旧旧道から始まり出雲街道に至るまで、馬車道以前に成立していた暫定車道の存在を白日の下に晒した実績は揺るがない。 その手土産を下に現地へ乗り込めば、取り零しや無知からくる勘違いは排除出来る。僕の経験値を上回る想定外の事態も無きにしも非ずだが、それはそれで素直に敗北を認め、貴重な学習機会とプラス思考で捉えるしかない。尤も川面峠の取材を終えた時点で勝ちパターンではあるが。しかし油断は禁物だ。 |
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◆山道はのっけから大型車一台の通行がギリギリの狭さ 川面峠は国道182号線の旧道である事を疑う余地はなく、ひとつの峠道を確定出来たのは大きな成果であった。しかしそれは同時に難題のレベルを一段階押し上げ、僕の前に大きな壁となって立ちはだかった。やはり九の坂は一筋縄とはいかない。事は思っていたより簡単ではないのだ。 川面峠を越す県道8号線の起源は、明治15年の馬車道の開削に遡る。明治10年代と言えば江戸道から明治道への移行期で、人畜のみが有効の徒歩道サイズの小径から、車両の往来が可能な幅広道への転換が積極的に図られた時代である。従って川面峠成立以前の車道を追求するのは邪道だ。 |
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◆所々に人家がある為か待避所が設けられている 新見市街地より西へ脱するルートが明治15年に確立されていたという事は、九の坂を越える峠道が旧旧道との解釈はかなり厳しい。明治一桁に峠道を造ってみたものの使い勝手が悪く、全く別の経路を辿る新道を新たに設けてみたという解釈も成り立たなくはないが、常識的に無理がある。 明治期の新道建設は村の一大事である。そう簡単にトライ&エラーを繰り返せるものではない。お試し期間は10年20年というスパンで、それでも利用し辛いという陳情が多数上がったら次の手を考えるという風に、ルート変更や大改修は早くても明治末、通常は大正期以降になるのが常識的な間隔だ。 |
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◆高速道路の側道を兼ねている九の坂越えの山道 だとすれば九の坂は川面峠の旧道という解釈は成り立たない。ここで思い出されるのは大分の大石峠と伏木峠の関係だ。古来供用されていた伏木峠が明治になると大石峠に覇権を奪われ、大正の足音が聞こえてきた頃に伏木峠が主役の座に返り咲くも、昭和後期に大石峠に奪還を許した椅子取りゲームだ。 道路の規格的には川面峠>九の坂であるから、九の坂が川面峠の規格を上回っていた時期があるとすれば、それはズバリ明治後期である。現在我々の視界に映る川面峠は大正4年に改修された明治道で、昭和になって若干肉付けされたものの、開削時の経路に上書きに上書きを重ねた踏襲路である。 |
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◆視界前方右手に水神様を筆頭とする石造物群を捉える その山道を一時期でも上回っていたとすれば、それは大正4年の改修時以前としか考えられない。明治15年に車道が通じたといっても、それは人力車の通行がやっとの狭隘路で、依然として馬車の通行は出来なかった。そこで代替ルートとして九の坂に白羽の矢が立つ。 明治30年代に九の坂に本格的な馬車道が敷設され、川面峠からあっさりと覇権を奪う。ところが大正4年に自動車通行を見越した全面改修が成され、川面峠は主役の座を奪還する。しかし昭和後期には手狭となり、九の坂に長大トンネルが穿たれる。以後九の坂が本線となるというシナリオは考えられなくもない。 |
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◆石造物のひとつに右くさかと彫り込まれた道標を確認 大石峠&伏木峠の一件と瓜二つという訳ではないが、主役の座を巡り椅子取りゲームが行われた可能性は否定出来ない。但し上記で示した順序には若干の変更があるかも知れない。というのも峠道に入ってすぐに水神様の傍らに鎮座する古風な道標を捉えたからだ。 右 くさか 道標は石の形状から江戸時代のものと思われ、九の坂が車道以前から使われていた事を窺わせる。もしかたら川面峠に負けず劣らずの壮大な歴史的背景があるのかも知れない。 九の坂2へ進む |